Qua(-D)の公演画像

カゲヤマ気象台によるコメント

 『Quad』は、ベケットの作品は、いや、この世に存在するあらゆる戯曲はそもそも、本質的には上演不可能なのかもしれない。
 それらはあたかも上演が可能であるかのように振る舞う、いわば詐術を行っており(人間が発話できるように書かれた台詞、細かく行動を指示したト書き……)、我々はそれに欺かれ、上演というものが可能であると思いこまされているだけなのかもしれない。
 「戯曲を上演する」という行為は逆に言えば、こうした戯曲の詐術にあえて乗ってみるというような、一種の知的ゲームに過ぎなかったのではないか。だとするならこの『Qua(-D)』は、『Quad』という戯曲が用いている詐術に乗らないまま『Quad』を上演するための試み、と言ってしまってもいいのかもしれない。
 『Qua(-D)』のとるプロセスはこうだ。「われわれは、サミュエル・ベケットの『Quad』の上演を目指すのだが、『Quad』以外の材料を使ってそうするのである。われわれに与えられている材料とは、芥川龍之介『河童』、太宰治『走れメロス』、リチャード・C・サラフィアン監督『バニシング・ポイント』、鴨長明『方丈記』である。どのようにしたら、これらの材料を使って『Quad』』を上演できるのかを、われわれは考えなければならない。」結局、上演を自らの生命/人生にとって意味のあるものにするためには、かように面倒なプロセスを経なければならないのだろう。そしてこれほどまでに込み入った手順を踏まえても、『Quad』の上演は不可能だ。
 むしろ手順が複雑化するほど、近接しつつ断絶化していくというような逆説に陥っていくだろう。しかし自らの生の中で思考しながら、ひとつの個人が戯曲への近接を無限に試みていく、こうした行為そのものが(本当は)演劇と言う営みなのかもしれない。

カゲヤマ気象台

公演詳細

サミュエル・ベケットの『Quad』と芥川龍之介『河童』を下敷きに、哲学的に「歩行」し、 哲学的に「視覚」する。
Autismの哲学者・曽布川が思考する空間・時間・平面の世界。

チケット

料金 ¥2,200
(戯曲がチケットの代わりになります。)

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About

これは、「目のための音楽」である。
わたしたちは、「見る」だけで自足することができない。
それは、「見る」ことが物事を固定し、動かなくさせてしまうからだ。

反対に音は、鳴り、響き、やがて消える。
しかし、物は、それがそこにあり続ける以上、いつまでもだらしないフィジカルをそこに見せ続ける。

わたしたちは、 わたしたちの目のために音楽を奏でることができるだろうか。
昔、自死した知人が残した遺書に、「とても美しい景色を見たから、もう死んでも良いと思った」と書かれているのを読んだ。 彼は、その景色とともに消え去ることを選んだのだ。その景色とは、どんなものだったのだろう。
「美しい」とは、何なのか?

その景色が彼を殺したのではないと思う。彼はむしろ死と引き換えにその景色を見たのだ。彼の死は、鳴り、響く音のように消えるその景色によって、報われたのだろう。その景色は二度と見れない。その景色は風に吹かれて消え去る。
しかし、わたしたちが見るものは流れ続け、また新たな景色を運んでくるだろう、そのたびにそれが消失するのだとしても。
流れ、消え去り、別のものになりながら、それは決して絶えることがない、「目のための音楽」。

社会実験室 踊り場

踊り場とは、階段の途中に設けられた平面/空間である。
それは、階段の各段よりも確実に広く、小休止、方向転換、転落防止のために役立つ。
階段の高さが4mを超えるごとに踊り場を設けることは、日本の建築基準法で義務付けられている。
曽布川祐、吉田美音子、小野加奈子による人文学ユニット。